愛媛県総合科学博物館は、11月11日(月)に開館25周年を迎えます。それにちなんで、この25年間の博物館の歴史をいろいろな角度から振り返っていきたいと思います。

今回は、開催期間中に25回目の開館記念日を迎える企画展「別子銅山・東平の思い出」をご紹介したいと思います。

では、そもそも別子銅山とはどういう鉱山だったのでしょうか。簡単に紐解いてみたいと思います。

別子銅山 近代化遺産 後期(電力期/第三通洞【東平】・第四通洞【端出場】時代)1902年(明治35年~1973年(昭和48年)/住友グループ広報委員会WEBサイト別子銅山 近代化産業遺産 後期編」より転載

元禄3年(1690年)、標高1,000mを超える別子山村に発見された露頭を手がかりに、ここに良好な鉱脈があることを確認した住友は、翌年、採掘を開始。全国各所から採鉱や運搬にあたる稼人を募り、急速に採掘体制を整えていく。

記録によれば、発見からわずか5年後の1695年には、別子銅山山中に2,700人もの店員と稼人が暮らす鉱山町が形成されていたという。

以来、200年近く江戸時代を通じて、別子銅山は日本、あるいは世界でも有数の銅鉱山としてその名を天下に轟かせてきた。」(出所:住友グループ広報委員会WEBサイト「別子銅山 近代化産業遺産 概要編」)

「東平ジオラマ模型(縮尺5千分の1)」提供:新居浜南高等学校 製作:日野寿光氏 企画展で展示中

明治になると、近代化を推し進め、採鉱過程で火薬・ダイナマイトの導入、蒸気機関でシャフトの巻き上げ、上部鉄道、索道、下部鉄道の整備、発電所、製錬所の建設などをおこないました。

採鉱は上層部から始まり、第一通洞→第三通洞→第四通洞と下層部に向かって掘り進み、それにつれて採鉱本部や労働者の住宅も移転を繰り返しました。

東平には1918年から1930年まで採鉱本部が置かれました。本部が端出場に移転した後も主要な採掘拠点であり続けましたが、1968年に閉坑しました。(住友グループ広報委員会WEBサイト「別子銅山 近代化産業遺産 後期編」をもとに要約)

別子銅山は閉坑からすでに46年が経ち、当時現役で働いていた人たちの多くが他界しました。今後は東平のことを語り伝えることが大変難しくなることが予想され、今のうちに少しでも多くのものを伝え残しておきたいという思いから、今回はこの東平地区に焦点を当てた企画展を開催し、広くみなさんにお伝えすることになりました。

▶それでは、展示室の入口から順にご紹介しましょう。

企画展の入口の手前左手には「企画展のレイアウト(展示案内)」が掲示してあります。

大きく6つのゾーンに分かれていて、「Ⅰ 別子銅山・東平」であらましをご紹介した後、「Ⅱ 東平での暮らし」「Ⅲ 別子銅山での仕事」で、東平での具体的な生活と仕事について、写真や、模型、ジオラマ、実物、映像などで詳しくご紹介しています。

▶では入口から入ってみましょう。

順路に従って左手に行くと、第1ゾーンのあらましが書いてあります。


このコーナーでは、前出の「東平ジオラマ模型(縮尺5千分の1)」東平全景の写真住友別子鉱業所東平の全景写真などを紹介しています。

東平の工業所や社宅が山の急斜面に作られたことや、生産や生活に必要なものがそろっていたことなどがわかります。

▶「Ⅱの東平生活」のコーナーでは、実物も展示して紹介をしております。

人力で鉱石を運んでいた時代は、写真の背負子を使って、下りは鉱石を、上りは生活用品を運びました。女性で30㎏、男性で45㎏を運んだそうです。

ここは背負子の体験コーナーになっていて、実際に背負うことができます。(バランスを崩すと大変危ないので、子どもやお年寄り、腰痛を持っている方などはご遠慮いただいております。)

人々の生活や子どもたちの様子も写真もたくさん展示してあります。

住友では学校教育に力を入れていて、私立の学校を建てて優秀な先生を集め、教材もよいものをそろえていました。

写真は、一の森の山の頂を削って作った運動場で、小中学校の運動会に保護者や東平の人々も集まってきている様子です。

▶次のコーナーは、「Ⅲ 別子銅山の仕事」です。

坑夫達は社宅から事務所前のプラットホームまで歩き、そこから人車(電車)に乗って第三通洞へ入坑していきました。

切羽で掘り出した鉱石は、鉱車(電車)で運び出し、貯鉱庫に移します。

貯鉱庫に貯めた鉱石は、選鉱場に送ります。

選鉱場では鉱石だけを選んで、貯鉱庫に流します。

これらの施設は、ベルトコンベアーや山の斜面の落差を利用して上から下へと移動させていき、索道基地に到達する仕組みになっています。

索道基地に来た鉱石をなべ(上の写真では保守作業員が乗っています)に移し、下部鉄道へと運びます。

こうして、錬所まで持ち込まれ、できあがった別子銅山の銅は、各地へと運ばれていきました。

「昭和40年代に入ると、坑道は延びに延び、海面下およそ1,000mまで掘り進んでいた。だが、その分、採掘に要する負担も大きくならざるを得ない。人件費の安い海岸からの鉱石輸入も本格化し、さしもの大鉱山も陰りを見せ始める。最終的にはドルショックの影響で、昭和48年 (1973年)、別子銅山は終掘する。元禄から昭和まで、全期間の産銅量65万tは、足尾鉱山に次いで国内2番目であった。」(出所:住友グループ広報委員会WEBサイト「別子銅山 近代化産業遺産 概要編」)

ここでは展示品のうち一部しかご紹介できませんでした。貴重な資料の全容は、ぜひおいでになってじかにご覧になるのが一番かと思います。(また、ミュージアムショップでは、展示された写真を中心に「フォトブック」を販売しております。)

展示室では、写真実物模型やジオラマ映像資料(学芸員による聞き取り記録映像、南海放送による閉山関連番組など)がございますので、当時の別子銅山・東平の息吹を感じることができるのではないかと思います。

▶また、毎週水曜日には「学芸員による展示解説」を上の写真にあるⅣ 展示解説・スライドショーコーナー」にて行いますし、11月17日(日)には同じ場所で、「新居浜南高校のユネスコ部」のみなさんがクイズを交えて楽しく解説をします。

さらに、スライドショーの右手奥(入口から見ると入ってすぐ右手)にある「Ⅵ ワークショップコーナー」で、ワークショップ「銅箔ギルティングクラフト★ハンギングフォト」を行います。

写真のような作品が作れます。

①まず「Ⅴ 記念写真撮影スポット」五十崎社中㈱のギルティング和紙を背景に写真を撮り、黒い台紙に貼り付けます。

②次に、文字「KENTARO★★★★★★SCIENCE」を金属箔で作り、写真の下側に貼り付けてできあがりです。

一枚記念にいかがですか。

(企画・伊藤)

《出所》

・別子銅山の歴史的記述

住友グループ広報委員会WEBサイト「別子銅山 近代化産業遺産 概要編と後期編」

・展示写真

企画展「別子銅山・東平の思い出」